2007年10月09日
許せなくなった日本人
ここのところ世間を騒がせている「別に」「とくにないです」の沢尻さんですが、
事件後から謝罪も入れて何日も経ちましたが、いまだに収まる気配がありません。
さらには「こんな、あんなこともあった」的なスミつつきが苛烈化しはじめている。
確かに「別に」の事件は酷いなと思った。世間のお怒りも当然だろう。
私も大勢の人たちの手でようやく作ることの出来る作品の意味を知っているから、たった一人の人間が、ましてやその作品の中心人物がそれをぶち壊すことを良しとはしない。
そうなった場合にはそれなりの理由を突き止め、また責任に相応する対価を払わせることもあるかもしれない。
沢尻女史の「別に」事件の場合、理由は曖昧だが(なんとなく想像は出来るが)世評に対して公式に謝罪をしたし、影響を受けるであろう件の映画に関し(またそれ以後の仕事についてもだろう)責任を取っていく旨意思表明をした。
若さ故の過ちや増長ならば関係者にとって(すぐには)水には流せなくとも、世間的にも一定の評価をして然るべきだろう。
しかしいまだ世間はこの女を許せない。
少し前に「朝青龍」というモンゴル出身の横綱が、似たような理由で角界からも世間からも干された。今は精神を患ってモンゴルで怪我とともに療養中だという。
彼の謝罪はまだ公式には無いようだが(本人は納得がいっていないという話もある)正式な処分も下されたし、責任を果たしているかは別としてその行動に対する罰は既に受けているはずだ。
しかし、この人に関しても世間はまだ鞭を打ち続ける。
二人の共通点としては、その世界において圧倒的な実力を持っていたこと。
そして若いこと。
日本には「穂は実るほどに頭を垂れる」という美しい言葉がある。
人は力を付ければ付けるほど、それに応じて須く謙虚さと人格を備えるべしという格言だ。
強い人、偉大な人は概して感謝や礼儀を知っている。故に奢らない、ということだ。
若いうちに大成すると、この部分が疎かになるとはよく言われていることだが、
両者とも程度や質の差はあれ、概ねその流れにしたがっていると思う。
だが今後それを矯め一層の精進を重ねていくきっかけになるのであれば、一時の過ちも肥やしになるだろう。失敗を活かせれば何の問題も無いことなのだ。
しかし、世間がそれを許さなければどうなるか?
過ちを償い、その失敗を活かす機会が許されなくなった経験の浅い若者は潰れてしまうだろう。潰れなくとも失敗前の力かそれ以上を取り戻せる可能性は極めて薄いだろう。
ここ最近のマスコミの報道をはじめ(恐らくはそれに煽られる形で狂奔する人たちも)失敗を犯した人間に対する懲罰は限度を超えていると思う。
Yahooニュースなどでも、関連の記事は他の記事に比べて長いあいだ掲載されているように感じる。「この事件で誰某の評価は変わったか?」などと分かりきった世評調査をいつまでも掲げ続けている。見方によってはほとんど「いじめ」である。
成功した人間の凋落は多くの人たちにとって享楽に近い感情をもたらす。
出る杭を寄ってたかって打つ快楽もあるだろう。
とても醜い人間の感情の一部であるが、これが無いという人間も少ないだろう。
だからその気分を理解出来ないと言うつもりはない。またその醜さも攻撃を受けた人間にとっては(本人次第だが)良い勉強にもなる。
もともと他人の不幸を笑うことが美徳ではないだろうがしかし、既に立ち上がり手向かうことも出来なくなった獅子にまだなお鞭を打つのは果たしてそれ以上にどんな意味があるのだろう?
よく聞くのは「もう消えていいよ」だとか「終わったな」という声だが、つまるところその世界からの抹消を望むような言葉だ。
過ちを犯してもそれ以前の人気や実力から、有望な人材だということに変わりはないはずなのにその才能を永遠に消してしまいたいのか?
その声の主は、かつてその才能に一縷の憧れも感動も無かったか?
過ちを矯めさせることと、存在を消すのでは天地ほどの違いがある。
ネットやメディアの普及によって一般市民は確かに大きな力を得た。
世評はいまや世界を動かしている。我が日本も例外ではない。
だがしかし力を得たことで誰かに必要以上の懲罰を加え、まして排除する権利まで得たと勘違いしてはいけない。
力のあるもの(世評)は謙虚であり思慮深くなくてはならない。「穂は実るほどに頭を垂れる」のだ。
それを見誤れば自分たちが弾劾した沢尻エリカや朝青龍と、自分たちもまた同じことをしていることになる。
現代は消費の文化と言われる。
花開くのも早いが散るのも早いということか。
消費と叩きが同義ではないが、まんざら関係が無いようにも思えない。
人間は使い捨てじゃないと信じたい。
- by weedfarmfix
- at 00:59


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